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本(05)-絵本の選び方について

2007年8月 7日 (火)

子どもが選ぶ絵本の選び方④

こんもり茂った百日紅の大木が、彩りも華やかにその身を装っています☆

昨日紹介した『アジェのパリ』で、著者の大島さんもよく似た事をプラタナスについて書いていたと思いますが、この百日紅、夏場は「百日紅」と書き、冬場は「サルスベリ」と書く方が、何となくイメージにぴったりする気がします。



さて…このテーマ、随分と久し振りの④ですね(苦笑)


今日のキーワードは「しかけ絵本」にしましょうか。

しかけ絵本と言っても、随分と色々な種類があります。


紙のふたをめくるもの。
紙のつまみを引けるもの。
穴が開いているもの。
手紙が入っているもの。
絵が描いてある透明なシートが付いているもの。
立体視出来るめがねが付いているもの。

などなど…


これらのしかけ絵本、図書館では積極的には購入されません。
理由は簡単です。
しかけの部分がすぐに破れたり、失われたりしてしまうからです。
破れた紙のふたや、付属のめがねが失われてしまうと、そのしかけ絵本は充分には楽しんでもらえません。
ですから、しかけが失われないように補強したり、失われたものの代わりに手作りのものが付いていたりします。
以前はカウンターに引き上げていたものも多かったのですが、手間がかかるので今では少数派になるでしょうね。
図書館も予算あってのものです。
他の絵本に比べて壊れやすいものを、なかなか積極的に購入することは難しいでしょう。
また逆に「新たに購入すればいい」という意見で、しかけの補強など、手間がかかる事をしない所もあります。
でも、これは論外ですよね。
図書館が本を大事にしないで、消費するだけのもののように考え、扱うのは絶対にしてはいけないことです。
貴重な人件費を非効率的な本の修理や補強で費やすことに難色を示すことは、税金を念頭に置いた理論では正しいことかも知れませんが、公の立場での、文化と情報の担い手としての図書館の役割(その情報の保存と利用)からすれば、正しいことではないでしょう。



閑話休題。

このしかけ絵本、本来ならば絵本の世界を重層的に広げてくれる意味で、非常に優れたものも沢山あります。

ただ、しかけが中心になってしまい、物語性が失われているものは、それが芸術的であるかどうかは別にして、少なくとも絵本とは言えないでしょう。(例のアリスや恐竜のポップアップがこれに当たるでしょうか)
おもちゃや芸術品としては否定しませんが、これらは絵本と見なさず、別のものを改めて子どもに選んであげるべきでしょうね。


選ぶポイントは、しかけが無くなっても、その絵本が読めるかどうかということ。
でも本当に優れたしかけ絵本は、しかけが無くても読めるけれど、しかけがあったらもっともっと楽しめるのに…そう思えるものです。



絵がお話を語り出すように、しかけがお話を語るものもあります。

しかけもまた、絵本の一部である、ということ。

大切なしかけには、例え技術的には未熟であっても、きっと様々な想いが込められているはずです。

その想いを感じながら、しかけ絵本の《読書》を楽しんでみてはいかがでしょうか…

2007年7月13日 (金)

子どもが選ぶ絵本の選び方③

台風ですね…

どうか、皆さんも気を付けてくださいね。



今日のキーワードは「絶対に読めそうにない絵本」です。

子どもが読みたいと言って持ってきた絵本を見て、こう思ってしまった経験をお持ちの方は、意外と多いのではないでしょうか(笑)


字が一杯あるから…
漢字が多いから…
分厚いから…
重いから…


その絵本を書架に戻してしまいたくなる理由は、幾つかあると思います。


勿論、子どもの側にも、選んだ理由はあります。


字が一杯だけど、絵も一杯だから…
字は読めなくても、絵が好きだから…
分厚くても、重くても、絵が一杯で好きだから…


勿論、肌触りや感触などで好きになる事もありますが、今日は「絵」にスポットを当ててみましょうか。


絵本は、絵と文字の調和があってこそ完成されたものになります。

でも、だからと言って、「絶対に読めそうにないけれども、絵が好きで絵だけを読みたい」子どもの気持ちを無下にすることも出来ません。



ただ、本当に優れた絵本は、絵だけを読んでいくことも出来ます。


かつて、教会に掲げられた絵やステンドグラスは、字が読めない民衆に、聖書の世界を伝える役目も持っていました。

挿絵の中には、描かれている事物で、絵の中の人物の性格や生涯を推測出来るようになっているものもあります。


絵は、ただ「それだけ」を読み込んでいくことが出来るのです。




大人だって、挿絵が好きで本を選んだり、絵を鑑賞する目的のために本を選んだりすることがあるのです。


絵本そのもの(絵と文字の調和)を味わうのは、まだ少し先になるかも知れません。

でも、折角の《読書》のきっかけです。

優れた絵本の絵は、それだけで芸術作品です。

そんな素晴らしいものに出会えるチャンスを、奪ってはいけないでしょうね。



ただ、だからと言って、背伸びしたものばかりを選んでもいけません。

子どもが選んだものが「絶対に読めそうにない絵本」ばかりであれば、それは数冊だけを残し、別のものも選ぶようにしてあげてくださいね☆

2007年6月25日 (月)

子どもが選ぶ絵本の選び方②

色々とあったので、なかなか続きを書けませんでしたが…

…①は3週間も前なんですね(苦笑)


……あっと言う間の3週間でした…



さて、今日のキーワードは「アニメ絵本」です。


アニメ絵本と言えば、すぐにディズニーやジブリのものを思い出しますね。

「絵本」の観点から語ると、この「アニメ絵本」はあまりにも旗色が悪くなります。

当然です。


アニメ絵本は、アニメーションの一場面、セル画等を並べ、文章で内容を補足しているものです。
ですから、当たり前のことですが、その絵はアニメに適した構図で、アニメに適した色を使い、アニメに適した線で描かれ、影が付けられています。また、アニメで描ける程度のものまでしか、書き込む事が出来ません。

つまり、それは動画に適した絵であって、絵本のような静止画に適した絵ではないのです。

これは、セル画そのものを使用していなくても同じことです。
同じ技法で描かれなくては、少なくとも同じイラストを利用したアニメ絵本として子ども達に認められないでしょうから、特別に書き下ろしたものであっても、同じアニメの技法で描く事が多いのです。


静止画のためではない絵を使用した絵本を、「絵本」とは呼べないでしょうね。



また、アニメ絵本を手にする子どもは、読む時にそのアニメーションを念頭に置いていることが殆どです。

これでは「絵本」を読んでいるのではなく、アニメーションを「思い出している」だけになってしまいます。



「絵本」の立場から見れば、「アニメ絵本」は絵本ではないでしょうね。



でも、アニメ絵本そのものは、別に悪いものではありません。

大人向けにも、映画のパンフレットのように、俳優さんの写真や映画の1シーンを並べている本がありますよね。
それらと同じように、好きなキャラクターを眺めたり、アニメ絵本の場面を見ながら、元のアニメーションを思い出すような読み方で、アニメ絵本を楽しむことは間違いではありません。


また、アニメーションがオリジナルであっても、絵本の技法で描き直したものの中には、優れている作品もあります。

この場合の境界線もまた、アニメのような絵か、そうでない絵か、です。



子ども達がアニメ絵本を選んだ時には、それだけで終わるのではなく、他の「絵本」も一緒に選んであげてください。

アニメ絵本の「絵」を絵本の「絵」と同じものとして扱うことは、子ども自身にとって不幸なことです。

絵本は絵本。アニメ絵本はそれ以外のものとして扱ってあげる事が、大切だと思います。

2007年6月 4日 (月)

子どもが選ぶ絵本の選び方①

…タイトルが堅苦しくなってしまいましたね(苦笑)


これからは暫くの間、幾つかのキーワードをもとに、絵本の選び方のポイントを書いていきたいと思います。

今日のキーワードは「厚紙」です。


書店の店先やコンビニ内のタワーで、厚紙の絵本がよく売られていますよね。
その殆どは、昔話を勝手気儘にアレンジしたり、「絵」と言うにはあまりにも幼稚で、子どもを馬鹿にしているようなイラストが描かれたりしています。(勿論、そうではない、きちんとした厚紙絵本もあります。でも、子どもが選ぶものとなると…その多くは、どうしても先に述べたような傾向のものになってしまいますね)

でも、この漫画やアニメのようなイラストの絵本、子どもは大好きなんですよね。

イラストはカワイイし、
内容は分かりやすいし、
乱暴に扱っても破れないし…


…そうなんです。
「おもちゃ」にしても、この厚紙絵本はなかなか破れません。

だからこそ、「厚紙」なんです。



幼い頃、絵本を「おもちゃ」にしていた頃には、このような厚紙絵本でも構わないでしょう。
でも、いずれは「おもちゃ」を「本」に戻さなくてはならない時がきます。
自発的に読書を始める子どもは、当然、そんな時期を終えていなくてはなりません。
なぜなら「おもちゃ」を「本」に戻すきっかけが、絵本では「絵」を「読む」こと…ストーリーの初めての認識にあるからです。


つまり、絵本を自分で選んで読もうとする年代の子どもには、絵本が厚紙である必要性はまるで無いはずなのです。(そして勿論、逆に言えば、出版社も厚紙絵本には、それ相応の年代を想定しているのです)


確かに、厚紙であれば、少々手荒く扱っても破れないでしょう。
でも、この年頃の子どもには、本を丁寧に扱うことも教えなくてはなりません。


一般的には、自発的に本を選び、読書をする子どもは厚紙絵本を卒業していかなくてはならないでしょう。

でも、勿論、時々は読んでも構いません。
時には、慣れ親しんだお菓子も必要なのです。
成長は連続するもので、急に変化が訪れるものではありません。

少しずつでいいんです。

厚紙絵本から遠ざかることは、本を丁寧に扱うことの第一歩になるはずです。


本は、多くの人が多くの想いと共に、大切に創り上げてきたものだと…
そんな当たり前のことに思いを寄せることも、大事な《読書》の姿勢だと思います。

2007年5月28日 (月)

音読と黙読と

このことについて、もう少しだけ補足しておこうと思います。


昨日、

耳からの読書のように受動的だったものから、音読のような能動的な読書への広がりは、やがて黙読に繋がっていく…

というような流れで書きました。


このように書いたのは、なぜなら、音読が黙読の『基礎』だからです。


でも、こう書くと、時系列として、音読が先で、次に黙読がくるように読めてしまいますよね。

昨日も書いたように、決してそうではありません。


なぜなら、黙読とは、音読がその姿を変えただけのものだからです。



大人になると、短い単語であれば、その文字を見ただけで、無意識に意味を把握してしまいますよね。

高速道路を走っている時に、「大阪」の案内標識を見て、わざわざ「おおさか」と頭の中で読み直している人はいません。特に、「大阪」の漢字表記に普段から接する機会の多い人は、その傾向が強くなります。

良く似た感覚かも知れませんが、あまりにも慣れ親しみ、違和感を感じさせない作者の文章を読んでいる時には、その文の単語一つ一つにあまり注意を払っていない場合があります。
わざわざ集中して注意しなくても、さらさらっと眺めるだけで、そこに書かれている文章が「見えてくる」からです。


でも、このような感覚は例外的なものです。

殆どの場合、黙読をする時に、人は頭の中で声を出して《音読》しています。

その意味で、音読は黙読の基礎となるものなのです。

そこに、音読と黙読の差はあまりありません。
外に向かって声を出すか、内に向かって声を出すか…ただ、それだけの違いなのです。


以前にも書きましたが、『若草物語』のベスは、チョコちょこの《中》では《あの声》以外には考えられません。
『奇岩城』のルパンも、読むたびに彼だけの《声》が聞こえてきます。話しかけてくるのです。

…でも、面白い事に、ルブランが描くホームズの《声》とドイルが描くホームズの《声》は違っています。
チョコちょこの中では、同じ名前の別人として、無意識に捉えているようですね。

これらの《声》が聞こえてくるのも、黙読しながら《音読》しているからこそです。


黙読は音読がその姿を変えたもの…そうであれば、どちらが先で、どちらが後かなど関係ありません。

特に経験の少ない子どもにとっては、どちらも《音読》なのですから。



でも、ここでもう一つ大切な事があります。

それは、

黙読は、考えながら読む手段の『基礎』になる…

と、いう事です。




《読書》の段階は、様々な要素の重なり合いを経て、発達していきます。


もう一度、整理をしてみましょうか。


読み聞かせを始めとする耳からの読書は、生まれた時から、全生涯に渡って有効な手段です。

ここで、幼い頃の耳からの読書に焦点を向けた場合、成長過程におけるある時期から、そこに音読が加わってきます。

この音読は黙読の基礎であり、ただ黙読はその音読が姿を変えただけものであることから、この2つの《読書》に目立った差異は生じません。言い換えれば、子どもにとってはどちらも《音読》になるのです。

ただ、黙読というスタイルは、考えながら読む手段の基礎になり、成長と共に殆どの人がそのスタイルを習得していきます。



そして、耳からの読書、音読、黙読を体験すると、以降の《読書》はその手段、スタイルによる影響よりも、如何に内容を捉え、読み取っていくかに重点が置かれることになります。

このカテゴリーは絵本の選び方に焦点を絞っているので、この後の《読書》については、物語を含めたより広い視野に立って後日、改めて書けたら…そう思っています。




少し、寄り道が過ぎたかも知れません。

次は本筋に戻って、どんな絵本を選ぶのかを書いてみたいと思います。

2007年5月27日 (日)

読み聞かせと自発的な読書と

このカテゴリーでは、読み聞かせの絵本の選び方ではなく、自発的な読書における絵本の選び方を書いていくつもりなのですが…

「読み聞かせ」と自発的な読書。

この2つは、どのように区分するのでしょう?


家庭での読書を考える時、

何歳から何歳までは、これを。
続けての時期には、あれを…

と言うように、まるで子どもの成長に区切りがあるかのように考える方もおられますよね。

でも、これは《読書》の姿を間違えて捉えている気がします。


「読み聞かせ」はいつから始めたらいいの?


この答えは簡単です。以前、
ブックスタートについての記事でも書いたように、生まれた時から始めることは出来るのです。


なら、いつまで続けたらいいの?


この答えも、実は簡単です。
いつまでも、続けて構わないのです。

「読み聞かせ」が読み手と聞き手の間に共有させる、優しさや愛情、信頼などの感情は、誰もがいつまでも大切にしたいものです。
何歳になっても、大人になってからでも、特別な人からおはなしを聞く事は喜びになります。
かつて、民話や昔話は、酒場や台所(食卓)で大人が大人に向かって語るものでした。

耳からの《読書》は、生涯に渡って可能なものなのです。


子どもが大きくなってくると、勿論、「読み聞かせ」の形が変化することはあります。

具体的には、絵本の中の絵と文字を分離し、『絵』を読むようになってから、やがて『文字』に何らかの『意味』があることに気付きだす頃
(小学校の入学前、幼年期中後期の頃)に、変化が生まれる場合が多いでしょうね。

「読み聞かせ」は始め、語り手が一方的に子どもに語りかけるものですが、次第に、子どもが語り手と一緒に、声に出しておはなしを読むようになったり、子どもが大人や他の子どもに対して、自ら読んでくれるようになったりします。


この時、耳からの読書に《音読》が加わるのです。


読んでいる文章が間違っているかどうか、内容や発音が正確かどうかなど、関係ありません。
また、よく気に入ったフレーズや単語、自分の好きなページの文章ばかりを選んで読んだりもしますが、これも当然のことです。
大人でも、好きな音楽の一部分だけを繰り返す事があるのですから。


受動的であった読書が、能動的なものに広がりを持つようになったのです。

これほど大きな変化はありません。

(ただ、何度でも書きますが、この変化も…自発的な読書へと繋がるこの変化も、何も幼い頃にしか無いわけではありません。音読よりも、下に続ける黙読が先に訪れる子どもも勿論います。大事なことは受動的であり続けたとしても《読書》が続くことであり、変化を強要しないことです)


この変化は、やがて黙読へと繋がっていきます。
ただ、黙読への移行はかなり個人差があるうえに、周囲の読書環境による制約や、しつけ、社会的関係の強弱などの要素もあり、いつから始まるか、一概には言えません。
もっとも、ここまでくると「いつからか」はあまり重要ではなくなってきます。
以降の読書については、その読み方…スタイルではなく、内容をどう捉え、どう読み取っていくのか、が大切になってくるからです。
でも、これについては、またいつか別の機会に。



では…


自発的な読書は、いつから始めさせたらいいの?


この答えはありません。

そもそも、質問が間違っているのです。


自発的な読書は「始める」ものではありません。


それは「始まる」ものなのです。

2007年5月26日 (土)

何故、絵本を『選ぶ』のでしょう

少なくとも、自分で絵本を探し、手にする意思を持った子どもに対して、何故、大人が改めてその絵本の適不適を選ばなくてはならないのでしょうか?

好きなものを、数多く与えていけば、それはいずれもが《読書》へのきっかけとなるのではないでしょうか…


「きっかけ」を、ただ数の多少でみるのであれば、このような子どもの場合には、大人が選ばない方が確かに「きっかけ」の数は多くなるでしょう。
誰でも、自分が選んだものを否定されたくはありませんからね。


でも、全ての選択権を子どもに与える事は、明らかな間違いです。


子どもは、基本的に自分が好むもの、或いは自分がそうすることで嬉しくなるものを手にする傾向があります。

自分が好きな絵。
自分が好きな動物が出てくるもの。
自分が好きな食べ物が描かれているもの。
お気に入りの色が一杯塗られているもの。
大きな絵のもの。
自分の手で持てる一番大きなもの。
一番近くにあって、すぐに大人の所に持っていけるもの。

などなど…

「好きなもの」がはっきりしてくると、そればかりを選んでしまうようになるのは、何も悪い事ではありません。

でも、だからといって、子どもがせがむからといって、お菓子ばかりを与えるのは身体にとって良い事でしょうか。

時には、甘いお菓子も必要です。

でも、そればかりでは栄養に偏りが生じます。

きちんとした食事も必要なのです。

スーパーの食品売り場で、子どもの身体を健やかに育むために野菜や肉類、お菓子をバランスよく選ぶように、絵本もバランスよく選択する事が大人の責任となるのです。


逆に、絵本や読書に興味が無い子どもに対しては、どうすればいいのでしょう?

同じように、《読書》を心の栄養や健康、成長に適したものと考えるのであれば、お菓子や食事に興味を持たせることと同じテクニックが必要になります。

味付けを濃くしたり、
甘いものを与えたり、
食べやすいサイズにしたり、
柔らかくしたり、
目の前で自分自身が美味しそうに食べてみる…


「絵本を選ぶ」とは、そういうことなのです。



ただ、忘れてはいけない事があります。

食事は生活に必要不可欠なものです。
でも、《読書》は生活をより豊かにしてくれるものの、不可欠なものではありません。

無理強いしてはいけないのです。

スポーツや音楽、絵を描く事などを、読書と同じように自らの心の栄養とする子どももいます。
共有関係であった「読み聞かせ」とは異なり、自発的な読書を始める事の選択は、大人にはありません。子ども自身にしかないのです。
その選択は、何も幼い頃にしか無いわけではありません。
子どもの人生の中の、何処かにふっと生まれるかも知れないものなのです。

そのきっかけに対して「読み聞かせ」の記憶は何らかの影響を与えるかもしれませんが、自発的な読書の強要は害にこそなれ、決して益とはならないでしょう。


そのことを忘れずに、子どもを《読書》へと誘ってあげてください。

2007年5月25日 (金)

絵本の選び方について

これから、こんなタイトルで、少し書いてみようかな…と思っています。


子どもが自分の好きな絵本を手に持ってきたとき、それを保護者としてどう選ぶのか。

子どもがちっとも絵本に興味を持たないので、保護者としてどう選んで渡してあげるのか。

…そんな場合が、想定できるでしょうか。


勿論、この2つの例でも、それぞれ選び方は違ってきますよね。



本来であれば、図書館のような場所には選ぶまでもない絵本が並んでいるはずであり、何も困らないようになっているべきです。

…でも、残念ながら、昨今の図書館はそうなっていないですよね。


理由は幾つかあります。

選択肢の狭い、良書主義への反発。
削減される一方の予算。
職員としての司書の能力、知識の低下。
保護者のニーズの変化、知識の低下。

などなど…


図書館のような場所でも、絵本を選ばなくてはならない…それは不幸な事であり、不便な事でもありますが、逆に考えれば、幅広い子どもに適した絵本を揃えるようになったとも言えるのかも知れません。


情報が溢れ、幅広い蔵書の中から絵本を選ばなくてはならない時、ガイドブックほど頼りになるものはありません。

ところが、確かに絵本ガイドは便利なのですが、そのガイドそのものが過剰に提供されているので、どれを選んでいいのか分からない…そんな皮肉な状況もあります。


そんな状況の中で、少しでも実際的で手助けとなるような事をこのカテゴリーで書けていけたら…そう願っています☆